昭和51年07月03日 朝の御理解



 御理解 第58節
 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食でなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」

 どういう例えば悪口を言われる様な場合になっても、しっかり信心の帯をさせて頂いておると、その悪口を言うておる人の事が本当に、みじめで気の毒で可哀想になってくる。その位の私はおかげを頂いたら有り難たいと思うですね。泥棒と言われたり乞食と言われたり、本当にそう言う様な時にいちいち、それを気に病んだりまたは腹が立ったりしておるとするなら、しっかり信心の帯をしていない証拠です。
 ですから、今月の信心のまぁ焦点ということが、太れ太れと大きくなれと太るということが信心、今月のいわば願目でありますから、いうなら相手が信心のない者又は信心の薄い者。又は相手が子供のように見えてくる、からたとえもう腹は立たんです。子供が言うた様な事で腹を立てる大人は滅多にいませんよね。たまにはおりますけどね、こん奴ばっかりは憎い子供のくせにと言われるのがやっぱりありますよね。もうまだ栄四郎が4つ5つの時だったでしょうか。ある人が参って来ました。
 そしたらこの方は頭もこう伸ばし、髭もこう伸ばしながら参って来るんです。昔あるとき、御結界のすぐ後ろが庭でしたが、後ろで栄四郎が言いよりますもん。「おっちゃん、あんたは妙な顔しとるのう」ち。それから腹かいちからいっときばかり参ってきなさらんじゃったです。よっぽどカッときたっでしょうね。ですからその子供の言うたぐらいな事で、腹を立てるという大人は滅多にないです。ですからお互い心の信心が育っていっておるのですから、言うならば心の子供ですからね。
 あいつは泥棒ごたる奴とか、そのう乞食のごたる奴とかと。面と向かって言うたとてです。子供であるならばです。あんた妙な顔ばしとるなと言われて、言われていわれたもんで腹かいて、信心せん今はまた参ってきよんなさる、それ依頼あんひげでなんでんきちっとしとんなさるごたるですよ考えてみると。やっぱり薬になっとるです。という様にですね。やはり私共が心の大人にならなきゃいけない。それこそ我が心が神に向うて行きよらなきゃいけない。私共も随分いろんな悪口を言われてまいりました。
 もう本当に人非人とまで言われました。その時に私はやっぱり本当に情けないと思う事もありゃ、相手をまた気の毒な人可哀想な人と思うた事もありましたけど、本当にこの人からそういう事を言われちゃならんという人から、人非人ととにかく椛目はまるきり蚊のような存在だ、人の生血をそのう吸うと言われる様な事も言われてきた。そういう時にです。神様にそのうお届けさせて頂きよりましたら、そうじゃ人非人じゃと人とあって人にあらず、いうならば信心は神様へなっていく稽古なんだ。
 だから人非人だ人にあって人にあらず、人間の姿はしとるけれども心は神様だと言うのです。変わって行くまぁそういう風に頂きますと、その人非人と言われる事がこんだぁ有り難とうなってくる。そりゃ随分ひどい悪口を言われましたよ。悪口を言われるだけじゃない、様々ないろんな事がございましたけれども、おかげでだんだん私の事を天神様と言うて下さったり、大黒様というて下さったり、そういう表現で私を神様は取り扱こうて下さった。
 私の例えばこのう紋付きのこの紋は大体梅鉢です。この梅中に輪が合ってそん中に梅があるんです。けれどもこの輪を取れとこう頂いたんです。これは一つの神格だと。この紋は天神様の紋と同じ事。自分というもう我がなくなった。それこそ「死んだ気で、励め努めよ人も助かる、徳も頂ける」というお知らせを頂いとった時ですから。もうそれこそ死んだ気でということは、もう我を取り除いておる姿、だからこれからおまえの紋はこの紋にせるという事を頂いた。
 ちょうど秋永先生が、長紋付きのお供えをした時に、どういうなら間違いをしたか知らんけれどこの輪を取ってきた。それとこれとが一致する。いよいよこれは私の紋と言う事になった。これは私には我がないという意味なんです。だから我がありませんから、ここに枠がありませんから、なんぼでも大きくなれる訳なです。我があったりこの枠があったから、大きくなろうとしても大きくなれないでしょうが。以来合楽はやっぱり一年一年大きくなっていっておるです。
 それこそお兄様の神達の荷物を一杯背中に担うて、お兄様達のお共しておられる時に、あのいなばの白兎と出合われた。お兄様達が「塩水で洗え」と言うていよいよ苦しんでおるところを、弟であるところの大黒様が「それではいけん真清水で体を洗え。」そしてガマの穂を敷いて休めといわれて、いなばの白兎が助かった。あぁいう例えば物語りの様にです。いうならお兄様達ということは、私供の先輩という意味でしょう。
 の先生方のお取り次ぎを頂いて、もういよいよ難儀魂魄が募ったと言う信者さん達が、その頃は幾らも助かっていった。私の取り次ぎによって。まぁいうなら他所の教会でどんなに修行しても修行しても、この人がおかげ頂かん筈がないという人が、難儀魂魄していった。偶々当時の椛目にお参りをして来た。いうならば塩水で洗えといわれておったのが、真清水で洗えとまぁいわれる様になってみんなが助かっ。その頃から私の事を大黒様いう、いうならばです神様の仲間入りした様に、神様はいうなら表現して下さった。
 だからそれがいうならばあのう言葉だけではない。以来いうならば大黒様がその沢山の荷物を担いでおられる。その時代から言うならば下に米俵を敷き、手には打出の小槌持たれるような、神格が進まれる頃からそれこそ合楽にいつも常駐に、米俵が何十俵と蔵の中に積まれるようになった。もう必要な金はどれだけであっても、合楽で必要な金というのは、もう本当にそれこそ日々にお初穂の整理をなさる、久富さんがいわれるように、もうその都度都度に間違いなくお繰り合わせを頂くようになった。
 だから本当なるほど大黒様の徳だと言う事を自分も感じ、人もそれを感じてお取り次ぎを願われるようになった。金銭のお繰り合わせでお繰り合わせ頂かん事は無いくらいに、此処でお繰り合わせ頂く様になった。ある時は私をどういう難儀な問題であっても、私がいう通ぉりにさえしておれば、もう絶対おかげになると、確信に満ちた御理解を日々頂ける様になった。私が言う通ぉりにさえしとればおかげ頂く。いうならば亀の背中にまたがった、浦島太郎が竜宮にいうならば行った。
 いうなら極楽を味おうてきた様に、けれども途中でその亀の背中から降りたり、外れたりしたらね、いざ知らずだけれども、背中にしがみついてさえおる限り、必ず竜宮行きは間違いない。合楽の先生の言われる通ぉりしとりゃ、いわゆるここで皆さんが親先生の言われる通りにしとりゃおかげ頂くがと。これは皆んなのね皆んなが言う言葉ですよね。合楽の方達は、親先生任せになっときゃおかげを頂く、その親先生という人はどういう人じゃろうか、それこそ神様の様な人じゃろうと言う事になる訳です。
 人間が言うた事がそれが本当に如実に、おかげになって表れて来ると言う筈はありませんものね。それこそ人非人と言われても、「そうです私は人非人です」と、けれども普通で言う人非人とは、「だだ値」が違う。人にあって人にはあらずという、神様に向かってどんどん精進し進んで行っとる時だからというのです。昨日研修の時に西岡先生が発表されておった中に、昨日の朝お夢を頂かれた。
 西岡先生自身が死んでおるという夢であった。もう顔には白布がかかっておると言う様なお知らせ、一寸その一時間ばかり前に、池田先生がお夢を頂いておる。もう西岡先生の頭から、どんどん真っ黒い煙りがどんどん立ち昇っているところを頂いた。そのまぁ先生の事をみな悪口を言うておる人はある訳ではあるまいけれどもです。そういう例えば言われておってもどうであってもです。それは今ここで修行をしとられます。
 子供達もいくらも出来子供達がおります。兄弟もいくらもおられるか私は知りません。ようく私は思う事です。誰とか話した事があります。西岡先生がコロっと死んなさったら、どこに通知したら良いか分からんのうやと言うた事です。もう長い居らん中そう言う事も実は聞きせねば知りもせんです。けれど今日は兄弟の何のところに行く、今日は兄さんの何のところ、今日は子供の所へ行くと言われるから、あぁ随分兄弟も居られるんだなぁと、子供もあるんだなぁと知っとる位です。
 それは恐らくはなら兄さんが、なら西岡先生を評してあん奴が金光様の先生どんなって、と悪口を言われとんなさるかも分らんのです。あれがする事が余りろくな事ばしとらんけん、金光様の先生にどんならにゃんたいと、言いよる人があるかも知れんですそれは。その証拠に西岡先生を訪ねて来る兄弟が居らんですもん。こちらから行ったちゃ。だから言うなら悪口を言われよんなさる、ようなかば真最中かも知れん。だからどういう悪口を言われても、こちらが死んだ気でおれば腹の立つだんじゃないですがね。
 そういう意味でです。ならどんどん黒煙りが上がって、本当におかげいただくその自分が死んだお夢を頂いた、もう皆が嘆き悲しんでおる兄弟が皆集まっとる、子供達が集まっとる。そして白衣と変えられる時に、あらこれはちとばかりぬくかっち言いよる。自分な白布の下で目ばパチッと開けちゃるげな、そしてこれからいよいよ人の助かることの為に、おかげを頂かねばならん。という時に親先生の声が響いて来た。「これから二〇年の長生きのおかげ」と言われた。
 今先生が60であるなら80までは長生きのおかげを頂いて、あと20年間はもう人間西岡雷太郎ではない、人非人言うなら西岡雷太郎として、人が助かる事の御用に立たなければならないぞということであると私は思いうた。私は思わせて頂きますのにね、我を取るということやっぱり自分がやっぱ死んだ気でと、もう自分が死ぬそこには不平もなかならなければ不足もない。
 その変わり西岡先生が一寸間違うとすぐお気付けを頂く、それだけ神様が西岡先生に対する期待というか、もうお前は人間じゃないぞと。そんな我情我欲を言うちゃ出来んぞと、我情がいう我欲すぐお気付けが頂ける程しに、なら神様からだんだん認められていきよんなさる、今こそどんどんメグリが発散しよる、黒い煙がもうもうと、頭から立ち昇っておる様な時だということなのでであります。
 西岡先生のお取り次ぎを頂いて、いうならば助かる、昨日も嫁婿さんが胃ガンの疑いでというて1週間後に解るんだと言うて、大変意気消沈して電話かけて来なさった。去年でしたか一昨年でしたか娘さんが子宮癌の疑いで、まぁ子宮癌と言う風に診察を受けられて大変嘆かれる所を、とにかく親先生にお取り次ぎ願うから心配しなさんなと言うておかげを頂いて助かって、でここに何回もお礼にでてみえました。
 広島の方におられる。そういうあれもあるからもう心配するなってね、もうとにかく安心してまぁ言うならば金光様に任せしとけ。私に任せとけと言う風に安心を与えられる様な意味の電話をしたというておられます。言うならそういう確信に段々満ちて来ておられる訳です。それが自分が抜けて行く、垢ぬけて行く、自分からめぐりが外れて行く、自分か神様にこの様にも認められておると確信が出来てくるに従って、やはり自他共に助って行く道が開けて来るんですよね。
 昨日ある方が、もう本当に合楽に御神縁を頂かれて、もう1年位になりましょうけれども、もう本当にもしあん時に合楽の親先生が居られなかったら、今頃は私一家はもう支離滅裂になったに違いない程しの中から、お取り次ぎを頂かれてお願いをして、今日家庭も円満、毎日日参のおかげも頂けて、そのご言うならば主人が毎日此処まで送って来なさるという程おかげを頂いておる。そのご主人が先日こういうものというて、金のこれは仏像。勿論金箔でしょう。それでこれに御神を入れてもらいたい。
 それなら合楽の親先生にお願いして、今そのうお寺さん当りのなら御神でん入れきる坊さんが居ろうとは思われない。だからというので昨日奥さんがこれをここえ持って来ましたから。きのうこれを此処に置いてから御祈念さして頂きよりましたらね、「八つ波観音」と言うて頂いた。こうしてみたらね、ほんな事ここんとこ丸ぁるかとところが八つ波になっとるんです。後から見てこれがそしてこうやってよくよく見たら中には、5つの私の紋どころが入っとるです。成ぁる程八つ波がね。
 ある大変霊能者である或る宗教家がね、やっぱりそのう自分を観音様として観音様を刻まして拝んでおった、そして天皇陛下やら皇室の事を言うたから、不敬罪で監獄に入れられた宗教家がありましたよね。やはり人間であっても人間じゃない、もう生仏様だと言った様なねその証拠には、沢山の人がやっぱり助かったんです。だからそれをなら私ね私が生神様といわれるね意味じゃなくて、神様はねそう思わずには居られない。天上界に於いては弥勒菩薩ね、この世においては布袋和尚だと言うあの軸を頂いた時にです。
 この世に天上界に於いては天地の親神様、この現世に於いては大坪総一朗という御理解を頂いた事があるです。もう3千年に一遍しかならないという程しの桃の実がなっておる、なるというあのお詠のあれ頂いた時にもです。大坪総一郎という人は3千年に一遍しか出るような人じゃないと言う様な御理解を頂いた事もあるんです。3千年ということは、3千年という意味じゃありませんでしょうね。美空ひばりのような人は、百年に一遍しか出らんそうですね。あげな声のよか人は。
 そういう意味なんでしょう。そう言う様な事をいろいろ頂いて参りますと時に、本当に私は神様になって行きよるなと。これは嘘じゃないです。本当にそう思うです。そして自分の心の中にです。本当にそういう神様じゃろという様な事を思って来るんです。いうなら情操力ね、もちろん人間の情操じゃないです。神様が感じなさるだろうと思う様な心が起こってくるです。それこそ「ほろほろと鳴く山鳥の声きけば、父かとぞ思う母かとぞ思う」虫けら一匹、例えば小鳥一匹の上にでもです。
 それをもう小鳥とは見ない、それを虫けらとは思わない。命あるものとしてみる。ひょっとすりゃあれは私の親の先祖の生まれ変わりかも知れんと思うなら、虫けら一匹だって踏み殺す様なここkろは起こってこない。そういう心が誰よりも強く。私の心の中に育って行くと言う事実をです。自分で思う時にははぁこれが神へ向かって進んで行くんだなと言う訳であります。此処ではまぁだそういう一つの実証の様なものが沢山ありますよね。ここの天地巌と呼ばれておる、この岩据わった時なんかがやっぱそうでした。
 向こうに手洗いが据わった時なんかもやっぱそうでした。ははぁ親先生は神様んごと神様から言われなさるけが、やっぱり神様の力を持っとらなきゃ、こげなことは起こるまいと言う様な事実が、実証、あかしになってある訳なんです。ならそういう例えば私は神様でもないですけれども、そういう風にいわれる程しのおかげを頂いたのはです。それこそ泥棒じゃとかねもうこれは言われるです。信者泥棒と言う風に言われるです。それこそ乞食じゃと言われても人非人だと言われてもです。
 それが腹が立つぐらいな事じゃない。その言う人の事が祈らずには願わずに居られないような心が頂けれて、初めてしっかり信心の帯をしてくる時の姿と、いうことが言えるのじゃないでしょうか。信心させてもらいよって、あれからどうか言われたから、もうそれがいちいちね腹が立って堪えん。言われた事が気になって堪らんと、言った様な事ではまだまだ信心の帯をしておるとは、しっかり信心の帯をしておるとは言われません。
 そこでです今月の焦点があるところの太くなれ、信心の帯がゆぅるかけんでそのそうじゃから、この腹ば大きくする太くするとこの帯がしっかり締まってくるでしょう。だからそういう常にです。これは神様が太れ太れと言いござると思うて心を太うするとです。例えば腹の立っておる問題でも腹が立ちません、気にる事が気になりません、心が小さい細いから腹が立ったり心配になったりするのです。
 だからはぁ今月はいよいよ太うならなきゃにゃならんという月ですから、締め直すじゃなくてからこちらの腹の方を太くすると、緩かった帯がぴしゃっと締まるようになる様な道理です。今日は58節からそういう様な今月の焦点である太るということ、痩せきれておって如何に力んだとて大した力が出る筈はありません。先ずは太らなければならなないといった様な事を、まぁ私の信心を聞いてもろうてこの58節を頂きました。
   どうぞ。